講演」カテゴリーアーカイブ

Hack For Japanの軌跡 – Japan Innovation Leaders Summit 2011 8.6 satから

Japan Innovation Leaders Summit 2011 8.6 satというイベントでMIT石井裕教授 × Hack For Japanスペシャル対談の枠をいただきました。そこでの冒頭の発表「Hack For Japanの軌跡」をここで再現します(一部、スタッフの当時の想いを補足するために、オリジナルのブログやTwitterへのリンクを追加しています)。
Hack For Japanスタッフ代表として及川卓也が発表いたします。

3月11日。皆さんはどこにいましたか?

私は職場が六本木ヒルズにあるのですが、その26階で会議中でした。すぐに収まると思った地震が予想よりも長く続き、そしてさらに大きく。地震にはある程度慣れているつもりだったのですが、もしかしたらこのビルでさえ倒れるのではないかと不安が大きくなったころ、やっと揺れは収まりました。
窓から外を見ると、お台場のほうで火があがっているのが見えます。下にはビルから避難した人なのか、多くの人が歩いているのが見えます。

インターネットでいろいろな情報を集め始めると、津波、そして原発事故が発生したことがわかり、ますます不安が広がります。家族の安否確認もとれません。

やっと家族の無事が確認できた後も、「この先日本はどうなってしまうのだろう」という不安が収まりません。途中まで歩いたりして、ようやく翌日の早朝にたどり着いた家でも、よく寝れず、被災地にいる知人や今後のことなどに思いを馳せます。

しばらくして家族の事情で九州に行きました。九州でも、そしてその後訪れた関西でも募金を始めとした各種支援が行われていました。日本が、そして世界がやさしさに包まれていた、そのように感じました。

ここ九州では、余震に怯えることもありません。ガソリンスタンドでは並ばずにガソリンが購入出来ます。明日の天気を必要以上に心配することもありません。夜の暗闇に備える必要もなく、家には帰れば、当たり前のように家族がいます。

当たり前であることが当たり前のままであること。それを平和というのだと再認識しました。

でも、一方で、自分がこんな安全な場所でただ遠い被災地に思いを馳せるだけで良いのだろうか、そう思っていたのもこの頃です。

この感情を今でもうまく表現出来ないのですが、それは「罪悪感」のようでもあり、「無力感」でもありました。

「何かできないだろうか」

それがその時の漠然とした想いです。自分や家族、日本に対する不安を抱えながらも、自分などよりももっと深刻な状況にいる人たちのために何かできないか。

そんなことを考えていました。

Hack For Japanスタッフの1人、山崎富美さんは地震発生当時、米国オースティンにいました。SouthBySouth Westというイベントに参加していたのですが、安否確認のIMが届き始め、何かが日本で起きていることを知りました。東日本大震災でした。

彼女は言います。「その夜は眠れず、タイムラインにはりついて朝を迎えました。SXSWi 初日です。あれだけ楽しみにして来た SXSW なのに、全く心はここにない。でも、タイムラインを読んでいたところで自分は何の役にも立たない。津波の恐ろしい映像が次々と飛び込んでくる。被災者の方はもちろん、東京の皆さんも電車が止まって 3 時間かけて帰宅したりあるいは帰れなかったり、余震に怯えたり。そうした様子をツイートやメールやグループチャットで疑似体験しながら、一体自分はこんな安全なところで何をやっているのだろうという罪悪感に苛まされたり。何かしたいのに何もできずに見守るしかない無力感が途方もない物でした。」(SXSW Cares (For Japan) – Fumi’s Travelblog

仙台に奥さんの実家があり、自身も10数年ほど住んだことのあるスタッフの高橋憲一さんは何か被災地の支援をできないかを勤務先に提案するものの必ずしも賛同を得られず、忸怩たる思いを持っていました。(http://twitter.com/#!/ken1_taka/status/48003219569393664

なかなか想いは届きません。「頭を冷やすはずが、帰り道、幕張の液状化跡の上を歩きながらまた思いがフツフツと…向こうの地はこんなものではすまないと思うとまた…」(http://twitter.com/#!/ken1_taka/status/48032519068725248

スタッフだけでなく、その時の多くの人が考えていたこと。
それが「何かできないだろうか」という想いです。

一方、Google Person Finderのように、確実にITが人々を救っているニュースも聞こえてきました。

スタッフの岩切晃子さんはダウンした自治体のサーバーのミラーリングが有志の力で成し遂げられるのを見て、ITの力を感じました。「失ったものはたくさんあるけれど、ITの力にどれだけ救われたか、そして、人の心の美しさにどれだけ心がしみたか。私の周りでもこれだけ事例があるので、きっと、もっといろいろITで何とかしている人たちがたくさんいるんだと思います。ご尽力いただいている方々に感謝いたします。引き続き、どうぞよろしくお願いします!」(人の心が目にしみる – I have dreams - 夢は野山を駆け巡る 

スタッフの関治之さんはsinsai.infoというクライシスマッピングサイトの立ち上げを行っていました。(http://twitter.com/#!/hal_sk/status/46224276386365440

サーバーはAmazonより提供を受けました。Twitterでの呼びかけに答えてくれたものです。

「@KenTamagawa OpenStreetMap メンバーで、ハイチなどでも活躍したUshahidiを使った災害情報集約用のサイト、http://sinsai.info を立ち上げています。サーバリソースが使えると大変助かります!」(http://twitter.com/#!/hal_sk/status/46382130577682432

開発者もTwitterで呼びかけると100回以上のリツィートされ、結果、数十人ものボランティアが集まります。

「sinsai.info のサーバ技術者のリソースが足りません!Ubuntu、EC2、Ushahidi に詳しい方、info@osmf.jp にご連絡いただけましたら幸いです」(http://twitter.com/#!/hal_sk/status/46759511154888704

次第に、sinsai.infoが使っているUshahidi本体やCrisis Commons経由でタフツ大学の学生など、海外からも多くの支援のメッセージが届き始めます。

Open Street Mapのクライシスマッピングではハイチ人が地図作成を行ってくれました。「日本人は、ハイチの時に地図を書いてくれた。今度は我々が助ける番だ。」(http://hot.openstreetmap.org/weblog/2011/03/haiti-osm-mapping-for-japan-and-libya/

このようにネットで広がるITによる支援を見て、「何かできないだろうか」という想いは「何かできるはずだ」という想いに変わっていきます。

このように想いが変化しつつある頃、所属企業、団体、組織の垣根を越える動きが芽生えます。それがHack For Japanです。

そのころ、私の勤務先では自社での支援だけでなく、外部の開発者にも被災地支援のアプリを開発してもらうことで支援を促進しようという話が出てきました。

私はすぐに思います。これは組織/団体を超えて集まるべきだと。

一気に短期間でモノを創り上げてしまう開発者合宿として定着しつつあるハッカソンを今こそ開催すべきであると。

すぐに知り合いの開発者などに声をかけはじめます。

Yahoo! JAPANさんには多くの知り合いがおり、開発者支援をやっている方ともお会いしているはずだったのですが、コンタクト情報が見つかりません。ゆっくりと探すよりも、聞いてしまったほうが早いとTwitterで呼びかけます。(http://twitter.com/takoratta/status/47643920460554241

これがYahoo! JAPANで開発者マーケティングをしていた、後にスタッフとなる冨樫俊和さんのところにリツィートされます。「あ、これ、俺だ」と、考えるより先に役員に1本のメールを送ります。何の団体かもどういうイベントかもわからない。どうしても慎重になる会社側に彼は言います。

「今やらないでいつやるんですか?」

地震の翌週、週末の三連休(3/19、20、21)が控えていました。やるなら今しかない。集まってきた賛同者に声をかけます。今週末に決行しようと思います。

最終的に決断したのは、米国オースティンから日本に戻ったばかりの山崎富美さんと電話で話した木曜日の夜。その時、彼女はまだ成田空港、私は福岡。数々のイベントを成し遂げてきた彼女がやれるというならばやれると思っていました。彼女が機中にいた間にスタッフで話し合ったこと、私の想い、すべて彼女に伝えました。

「やれますか?」

「やりましょう!」

あるスタッフの勤務する賛同企業では、アナウンス文などに社の名前を入れるのにも、本来ならば関係部署の承認が必要です。しかし、非常事態故に決まったフローもありません。

「あとで、僕が怒られておきます」

そう言って、アナウンスへ賛同企業として掲載することを許可してくれました。

後日、何の団体なのか、どういう主旨なのかなどの説明を求められたらしいのですが、こういう集まり自体がイレギュラー。対応できるレギュレーションがないのです。すべてを支えたのは、「何かできるはずだ」という想い。

原発事故、計画停電と東日本の状況の不透明さが増すため、当初はオンラインのみで開催予定だったハッカソンですが、西日本ならば会場に集まってできるはずと急遽、京都会場を用意しました。その後、福岡と岡山、徳島が加わって、4会場に。

多くの人に加わって欲しいとの想いから、いくつかのネットのサービスを用いて、オンラインで議論は進めました。すごい勢いでアイデアが書きこまれ、もはや整理も不可能になってきたころ、ちょうど海外に出張していた同僚が夜中のうちに議論を整理してくれました。また、このスライドのように議論を可視化してくれるサポーターも現れます。

3連休直前に声をかけたためか、京都会場への参加表明があまり良くありませんでした。急遽、私やほかスタッフのTechTalkを入れるなど、出来るだけ来てもらう工夫をします。スタッフにメールで呼びかけた文章が残っています。

「ブログ、Twitter、電話、街宣車、立て看板などなんでもかまいません。急ぎ周知および積極的な勧誘をお願いします。 」

その甲斐あって、結果としては会場が窮屈になるほどの多くの方に参加していただけました。

4会場で100人近い参加者を集め、多くのプロジェクトが発足しました。

ハッカソン終了後、スタッフへのメールでこう書いています。

「これで終わったわけではなく、むしろ始まりだと思っております」
震災復興には数年から10数年、さらにはもっと必要なことがわかり始めていました。一度のイベントで何かを成し遂げようとするのではなく、これをキックオフイベントのように位置づけ、継続して支援を行っていく。それがHack For Japanの活動目的となっていました。
今から見ると、この第1回ハッカソンは本当に始まりに過ぎませんでした。

ハッカソンは成功に終わったのですが、1つやらなければいけないことがありました。
それは被災地を訪問すること。

まだ混乱が続く中、被災地を訪れることは非難されることも覚悟していました。ですが、現地を訪れてみないとわからないこともあります。

「まだ早いと言われる可能性があることは覚悟しているが、とにかく現地に赴き、実際を肌で感じてみたい」(Hack For Japan~仙台、石巻を訪ねて – EnterpriseZine

訪問先からは「まだITの出番じゃない」と言われたこともあります。声を荒らげ、何しに来たんだと言わんばかりの剣幕だったところもあります。すべては覚悟の上です。

しかし話を聞いてみると、ITで解決できそうなところはいくつか見つかります。時期が来れば、ITが活躍できるはずだとの想いも強くなり、次のハッカソン開催への気持ちも強くなります。

第2回、第3回のハッカソンは被災地との連携が大きなテーマでした。第2回には、会津若松、仙台が加わり、第3回には遠野がさらに加わりました。

アイデアソンはIT技術者以外にも集まってもらい、震災復興のためのさまざまなアイデアを話し合います。被災地の状況を知るために、被災地の現状をストリーミングで東京などの会場に配信します。

スケッチブック、付箋紙、マジックペン、フリップチャートなどがアイデアソン用具です。非常にアナログな方法で議論は進められます。

ハッカソンではアイデアソンで話し合われたアイデアを実現するための開発が行われます。被災地ごとにニーズが異なるため、会場によって特色のあるものが開発されていきます。

右下にあるのは、会津若松会場で開発されているガイガーカウンターです。

アイデアソンとハッカソンは東日本を中心に行われていますが、毎回、会場を自分たちで調達してまでして参加してくれる西日本の有志がいます。遠く離れた西日本からでも何かをしようという多くの人が参加してくれています。

Hack For Japanというコミュニティ名にしているため、自分はハッカーじゃないから参加できないという声を聞きます。自分は開発者ではないので遠慮しているという人も聞きます。

今必要とされているのは支援しようとする意思です。開発者以外の人もアイデアソンでの議論、さらにはハッカソンでも利用者としての立場での意見提供、情報の収集などいくらでも手伝っていただくことがあります。

スタッフの山崎富美さんは言います。

「エンジニア・開発者以外の方も皆さんお力を貸して頂きたいと考えています。というのも、5月のハッカソンでは「コードが書ける人はいっぱいいるけど、もっと使ってもらうよいデザインにするためにも、デザイナーの人にもっと来てほしい」という声が参加者からあがっていました。また、新しいサービスが作れなくても、既存の様々な便利な IT サービスが充実してきている今、それらをご存知ない方にお知らせしたり、既存のサービスを使って問題を解決したりということができるという場面がとても増えてきています。」(Hack For Japan: 遠野に行きませんか? – Fumi’s Travelblog

「コードでつなぐ。想いと想い」

これがHack For Japanのキャッチコピーです。

40案ぐらいの中から選ばれたコピーです。“開発者の「何かしたい想い」と被災者の「切実な想い」をつなぐ場を訴求する”ということから考えたものですが、実際にHack for Japanで活動してみると、それだけではありませんでした。

Hack for Japanでは、開発者と被災地の方の想いはもちろんですが、開発者同士や開発者とデザイナーの想い、被災地の方同士の想い、被災地から遠い西日本の方の想い、ITとは無関係でも何かしたいと願っている人の想いなど、さまざまな状況にいる方の想いをコードでつないでいます。

ここにHack for Japanの姿があると感じており、このコピーは原案者であるスタッフの佐伯幸治さんの想像を超えてHack for Japanのありのままを表現しているものになっています。

記憶は風化していきます。ですから想うことはこれからますます大切になります。その想いをつなぎ続けることがHack for Japanなのだと実感しています。

ありがとうございました。

プロジェクト紹介

「Hack For Japanの軌跡」のプレゼンテーションの後、Hack For Japanで活動中のプロジェクトとして以下の3つを紹介しました。

MIT石井裕教授からのメッセージ

Japan Innovation Leaders Summit 2011 8.6 satではMIT石井裕教授が基調講演を行われ、我々のセッションにもパネルとして登壇いただきました。

イベントの懇親会の席で石井教授から非常に心動かされるメッセージをHack For Japanにいただけました。石井教授からメールでその要旨を送っていただけましたので、ここに掲載します。

本日(8月6日)、リクルート社Tech総研のイベントにお招きいただき、311震災から学んだことを皆様と共有させていただく機会を賜り、御礼申しあげます。5月21日の TEDxTokyo での私の311講演「The Last Farewell」をきっかけに、Hack for Japan の皆様と知り合うことができ、さらに今回のイベントを「ハック」して、 H4Jの特別セッションをその真ん中に作り、震災に応えて立ち上がった技術者たちの熱い想いを皆様と共有できたこと、そしてその場に私が居合わせる事ができたこと、とても幸せに思います。

何故プログラムを書くのか、何故電気回路を作るのか、何のためにモノを作るのか、誰のために作るのか、何のために生きているのか、何故僕らはこの社会に存在しているのか、その答えを、風@福島原発、オープンガイガー、そして写真修復の3つのH4J プロジェクトの技術者たちが、今日鮮やかに「人間」の言葉で語ってくれました。そして彼らが活動するオープンな知的協創の場、Hack for Japan を創り育てた及川さんが、その想いを熱く語ってくれました。「何かできるはずだ」、「今やらなくていつやるんだ」、「やりましょう!」彼が紹介してくれたH4Jメンバーの言葉に込められた想い。そして、「アンインストールされ、誰もそのアプリを必要としない日がくることを祈る」という「風@福島原発」の開発者の想いの深さ。

人はお金や名声だけのために生きているのではありません。私たち技術者は、技術者だからこそできることを通じて、社会に貢献し、自分の生きていることの証を,自己の存在証明を求める旅をしているのだと思います。志と情熱さえあれば、H4Jのようなオープンなコラボレーションを通して、その志に共鳴する仲間を集め、個人では不可能だったとてつもない貢献をものすごいスピードでなし得る今日、こうして皆様にお目にかかり、感動を共有できたことに、心から感謝申しあげます。

石井 裕

会津工業高校のハッカーへ
会場に来れなかった会津工業高校のハッカーへメッセージを送る石井教授

終わりに

今回のイベントで発表したスタッフの想いは本当にごく一部です。このブログを読まれている皆さんも同じような想いだったことを思い出されたことと思います。この想いを忘れずに、また、石井裕教授の言葉を糧として、これからも活動を続けたいと思います。

Hack For Japanに賛同し、進めていただいているプロジェクトはここで紹介した3つ以外にも多くあります。刻々と変わる被災地の状況にあわせて新しいプロジェクトも必要になってきます。遅すぎることはありません。継続した復興支援のために、いつからでもどんな形でも是非ともHack For Japanへの応援と積極的な参加、お願いいたします。

Hack For Japanスタッフ 及川卓也

P.S. このプレゼンテーションの舞台裏を書いたブログもあわせてお読みください。
Hack For Japanの軌跡 – Japan Innovation Leaders Summit 2011 – Nothing ventured, nothing gained